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DIARY

The wooden floor of Salesian Junior High School

保湿成分がお肌に吸着し、しっとりと柔らかいお肌を保ってくれるライオンのボディーソープhadakaraから、泡で出てくるタイプの発売が決定となりまして、強行で一泊だけ東京へ戻り、新たなCMの撮影をして参りました。

私の肌は、糖質を摂ればたちまち大人のにきびが出現し、強い化粧品や洗剤によってかぶれてしまう敏感肌でして、限界を超えて働き過ぎると蕁麻疹や帯状疱疹に見舞われることもあるアレルギー体質だったりもします。
分子整合栄養医学の処方によるサプリメントの摂取によって多くの症状は改善され、とりわけビタミンDを一日に15000IUという高単位で摂りだしてからは、花粉症だったことも忘れているくらいですが、それでも現在過ごしている山の中では蚊に刺されただけで過剰に反応していつまでもかゆいままですし、先日も放牧されている牛の傍らを油断して歩いたところ、あえなくブヨの攻撃に遭い、背中も手も、目も当てられぬほど腫れまして、「hadakaraのCMの撮影に間に合わない!」と、渋々ステロイド点滴を施した次第です。

そんな私でも安心して使えるhadakaraから泡で出てくるタイプが発売とは何と嬉しいことでしょう。
木漏れ日が心地よく差し込むミッション系スクールにて、意味深長でドキッとするような物語を撮影したのですが、スタッフの皆さんの絶妙なチームワークによって瞬く間に進み、初めてのシャワーシーンもふわふわでクリーミーな泡を肌に塗布して滑らせること数回、無事に終了いたしました。

ありがたいことに、撮影用小道具として大量に飾られていたhadakaraをいただいて帰っても良いとのこと、スーツケースの隙間にお気に入りのフローラルブーケの香りと、グリーンフルーツの香りを詰めて飛行機に飛び乗ったのでした。

泡で出てくるタイプの発売は9月26日です。ぜひ店頭にてお求めくださいませ。

ヒューゲルカルチャー

Running my little farm with hugelkulture

音楽祭で賑わうザルツブルクは、例年には珍しく灼熱地獄を迎えています。

幸い山の中で暮らしているため比較的涼しく、昼夜問わず安眠できておりますが、街で暮らし、仕事をする人々にとっては、死活問題です。
盛夏の湿気と高気温に慣れた私たち日本人は、各家庭に冷房や扇風機を完備していますが、こちらでは、ラジエーターや暖炉など、暖房器具の設置には余念がないものの、冷房をしつらえるという習慣がありません。
数年前の熱波にて、ヨーロッパで多くのご老人が亡くなったのも、冷房の備えがなかったからでした。
ワインショップのオーナーは、カーブに保存するような高級ワインは難を逃れたとしても、店頭に陳列した数百というテーブルワインが劣化してしまうと嘆き、多くの人々は眠れぬ夜を過ごしているようです。

我が家に引かれた水道は、山の伏流水をポンプでくみ上げたもので、近隣の数軒と、貴重な水源を分かち合っており、西日本の惨劇とは裏腹に、降雨量が不足しているこちらでは、植物への水遣りも遠慮がちになってしまいます。
それでも、今年初めて挑戦したヒューゲルカルチャー農法のレイズドベッドは、リーフレタスやルッコラ、トマトに大葉などをグングンと成長させてくれます。
水はけのための石を敷き詰めた上に、数年間乾燥させた薪や丸太を重ね、さらに小枝や落ち葉などを被せて、コンポストの発酵した野菜くずを載せて、ビオソイルで覆っただけなのですが、必要なだけ保水しつつも、確保された水はけの良さと、微生物による発酵、みみずの土壌改良効果により、作物がよく育つそうです。

おかげさまで葉ものも毎日ニョキニョキと生えてくるため、食事の直前に摘みたてを和えることが楽しみとなり、マーケットやスーパーで求める必要がなくなりました。
無農薬の摘みたてサラダは、存外にやわらかく、アルガンオイルやアボカドオイル、オリーブオイルに亜麻仁油、パンプキンシードオイルなど、様々なオイルを日替わりで使い分け、ホワイトバルサミコとザルツブルク産の岩塩、お味噌や鮎の魚醤などを入れ替わりで混ぜ合わせてドレッシングを作って食しています。

バジルは食べる直前にジェノベーゼソースにして古代小麦のパスタにからめ、セージはサルティンボッカに、コリアンダーはタイ風の春雨と海老の炒め煮クンオプウンセンや挽肉のラープムーに用います。
種を持ち込むことができず諦めていた大葉も、幸運にもこちらで苗をみつけたため、海老春巻きに入れたり、手巻き寿司の薬味にしたりと大活躍です。

こちらでは美観の問題から網戸をしつらえる習慣もなく、ハエや蜂、蚊との共存を強いられる田舎暮らしではありますが、にわか自給自足生活はなかなかよいものです。
明日は、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」で忘れ難き印象を残したリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のコンサートを聴きに行くため、街へでかける予定です。

喫茶去

The great emptiness in Salzburg

ドラマ『あなたには帰る家がある』の撮影が終わり、ザルツブルクにて失われた日常を取り戻す日々でした。

2年前から密度の濃い企画書を下さっていたTBSの高橋正尚さん、長い月日を経て久々にご一緒させていただいた高成麻畝子さん、巧みな演出にて物語に緩急をつけてくださった平野俊一監督をはじめとする素晴らしきスタッフの皆様、そして、優しさと弱さをはき違えたダメ夫を、なりふり構わずコミカルに、絶妙なタイミングで演じて下さった玉木宏さん、男尊女卑をこじらせた残念で哀しい寝取られ夫を、豊かかつ鋭い感性にて演じて下さったユースケ・サンタマリアさん、さらには女性の儚さとなまめかしさ、毒々しさまでも抑制の効いたお芝居にて見事なまでに表現して下さった木村多江さんをはじめとする信頼のおけるキャストの皆様に恵まれて、働く主婦を演じさせていただいた日々では、大島里美さんが書いて下さったリアルで人間味に溢れる怒濤の台詞と闘い、真弓という人物の激しい喜怒哀楽をいかに表現するか、羞恥心や自尊心をかなぐり捨てて、心をいかに自由に解き放つかということに腐心しました。

さて、ザルツブルクでは草刈りに励み、植栽の植え替えをしたり、野菜やハーブの苗を植えたりといった何でも無いことに明け暮れていると、一日が瞬く間に過ぎてゆき、「仕事中よりも忙しいかもしれない」と思えるこの頃です。
UNIQLOのUVカットパーカーを頭から被り、更にはつば広の麦わら帽子でガードをして野良仕事に勤しんでいると、つい先日まで他人を演じていたことなど忘れて、ただひとりの人間に戻れるのです。

そんな平穏な日常に、本日は心にピリッと響く刺激が舞い込んできました。

長年にわたりお世話になっております伊藤園さんが、歌舞伎座にて公演中の七月大歌舞伎を貸し切って、日頃よりご愛飲いただいている大切なお客様や、お取引先の方々をご招待なさるというハレの場にて、お客様にお茶を差し上げるという大変なお役目を仰せつかったのです。
「私の血管には血液ではなく、お〜いお茶が流れています」と言えるほど、10代の頃より、常にお〜いお茶と共にある人生でした。
その伊藤園さんでは、「群鶴の白」と称する甘くて口当たりのよいお抹茶を作られていて、楽家の10代旦入の赤楽茶碗などを用いて、お点前をさせていただきましたが、これもひとえに伊藤園の茶道部の皆様のサポートあってのこと。訪れてはお茶を召し上がり、去って行かれた約300名のお客様とご一緒させていただいたひとときを、大切に記憶に焼き付けました。

慌ただしいようですが、これより再びザルツブルクへと旅立ちます。
雨に恵まれて、しその苗も無事であることを祈りつ………。

わからなくてもいい

Dahn Vo Exhibition at Solomon R. Guggenheim Museum in New York

わずか数日ながらニューヨークを訪れました。

恒例のグッゲンハイム美術館では、ヤン・ヴォーの「Take My Breath Away」と称する展覧会を鑑賞して参りました。私と同い年のアーティストは、ヴェトナムにて生まれたものの、共産政権から逃れるために幼少の頃に父親の手製による木船に乗って文字通りのボートピープルとなり、運良く貨物船に救出されデンマークに亡命したという数奇な運命を辿ってきました。

自身の生まれた国の戦争や植民地時代の歴史にまつわる既製品、例えば錆びた調理器具や農耕道具、写真、あるいは父親が祖国を脱出する際に持って逃げたというロレックスの時計やダンヒルのライター、または万年筆のペン先、ベトナム戦争の和平交渉が行われたパリのホテルに飾られていたという豪華なクリスタルのシャンデリア、ヘンリー・キッシンジャーの手紙などといった品々を、ほぼ手を加えずにそのまま展示しています。
もちろん、そこにはそれらを選択し、フランク・ロイド・ライトの設計によるらせん状の回廊という特異な空間にいかに展示するかというヤン・ヴォー自身の意志が介在し、彼のリアルでパーソナルな物語が存在するものの、それらをデザインし、物たらしめたのは彼ではなく、かつてトイレの便座を展示して論争を巻き起こしたマルセル・デュシャンのレディ・メイドや、ガラクタや未完成の品、ただの板書などを展示することで、議論のきっかけを提示したヨーゼフ・ボイスを彷彿とさせるコンセプチュアルアートで、それらを鑑賞した人々の賛否は激しく分かれるものと思われます。

価値ある大理石のギリシャ彫刻や木製のキリストの磔刑像に聖母マリア像などはヤン・ヴォーによってためらうことなく切断され、それらを改めて繋ぎ合わせることで、新たな彫像が生まれるのです。そうした作品を美しいと感じるか、醜悪と感じるかは、鑑賞者の目と感覚、倫理観に委ねられていますが、個人的にはとても大胆かつ、彼自身の葛藤や矛盾した感情の表れのようなこの作品が最も好きでした。

彼を美術界で人気アーティストたらしめたのが、「We The People」と題する展覧会で、ニューヨークを象徴する自由の女神の実寸大を銅の断片で制作し、今回の展示でもそれらのいくつかが無造作に床に点在していました。
世界中で難民、移民問題が噴出する中、難民であった彼が、かつてヨーロッパからアメリカ大陸に渡ってきた人々にとっての自由の象徴であった世界で最もポピュラーな彫像を再構築して披露したことは、意味のあることなのでしょう。

ヤン・ヴォーの作品たちは、人に違和感を抱かせ、時に人を不快にさせ、不安にさえさせられます。
きっとそれは、私たちが信じてきた物の価値を根底から揺るがすような力強さを持っているからなのでしょう。
世界中のアーティストが羨むグッゲンハイムでの個展においても自叙的なガラクタを堂々と展示してみせることで、今の貨幣制度や消費社会、メディアの画一的な情報に踊らされる私たちを挑発し、嘲笑っているかのようにも思えます。
同時に、他人の手紙や既製品を掲示し、他人の作品に手を加えて自らの作品とすることで、作品は誰に帰属するのかという論争の種を自らまき散らしています。

私はまだ、彼の作品を真に理解するには至っていません。
しかし、こうした作品は、わかったふりをする必要もなければ、無理して好きになる必要もないのだと思っています。
鑑賞者が各々異なる感情を抱くことが、そもそも作者の意図であり、私たち鑑賞者の異なる視点が交差して初めて作品が完成するのでしょう。
今回のグッゲンハイムは、彼の作品には少々手狭だったようにも思えました。ただの白い箱の中で少しずつ鑑賞したら、また異なる印象を得るのかもしれませんね。

夜にはカーネギーホールにてグスターヴォ・ドゥダメル指揮によるウィーンフィルの演奏に耳を傾け、大好きなグスタフ・マーラーの交響曲第10番の第一楽章アダージオの哀しくも心地よい不協和音の洪水の中で浮遊しておりました。
詳しくは小説幻冬の連載「文はやりたし」にて。

Snow museum

Snow scape in Salzburg

舞台で酷使した身体を休め、羽を伸ばすため、しばしザルツブルクにおりました。

羽生結弦さんの優美なパフォーマンスによる金メダルで沸き立つこの頃ですが、ザルツブルクもエクストリームスポーツのメッカとして、プロフェッショナル、アマチュアを問わず、多くの人々がありとあらゆるウインタースポーツに興じています。

子供の頃から雪に親しんできたこちらの人々は、スキーやスケートはもちろんのこと、スキースケーティングなる、細めのスキーを履いて雪上をスケートのように滑るコースを楽しんだり、アイスクライミングで氷壁に食らいつくスリルを味わったり、富士山よりわずかに低い3300メートルほどの雪山を自らの足で登り、雪崩の危険を感じながらもスキーで滑り降りてくることを日常的に繰り返すことも少なくありません。従って、極普通のご家庭のお子さんがTPOに合わせててスキーを3種類くらい持っていたり、非常時の捜索用ビーコンや、雪崩用エアバッグを常備しているご家庭も珍しくはないようです。

高所恐怖症とスピード恐怖症を併せもつ私は、残念ながらスキーも、スケートも、スノーボードもできませんが、昨年より、かんじきのようなスノーシューを始めまして、この度も1週間の滞在中ほぼ毎日、裏山の誰も足を踏み入れていないパウダースノーの上をキュッキュッと音を立てつつ歩いておりました。
気温はマイナス2〜3℃で鼻先がツ〜ンと冷たくなり、顔は頬紅をさしたかのように紅くなるのですが、スノーシューを履いて10歩も歩けばすぐに体温が上がり、むしろ熱いほどになります。

なんと平穏な時間でしょう。しんと静まりかえった山の中では、自らの吐息と雪に沈む足音、そして風が頬をなでる音だけが聞こえ、時折木々に積もった雪が自身の重みに耐えきれず落下するゴソッという音が加わります。
長い台詞や確定申告のことなど全く忘れて、何も考えずにただ空と木々と雪だけを眺めて進む時間は歩きながら瞑想をしているかのようで、至福のひとときです。

野生の鹿の華奢な足跡は真っ白な雪原に刻まれ、枝葉の細部にまで積もった雪は、得も言われぬ美しい線を虚空に描きます。それらは、いかなる美術館に展示された作品も叶わない究極のアートなのです。

BVLGARI

Flagship store of BVLGARAI in Rome

昨夏のことですが、婦人画報の撮影にてローマを訪れ、BVLGARIの本店へ立ち寄らせていただきました。

彼のソフィア・ローレンやエリザベス・テイラーが愛したという色石を得意とするBVLGARIの贅沢なジュエリーを撮影のわずかの間でも身に着けたことは、千穐楽を迎えたばかりの『黒蜥蜴』を演じる上で、大変貴重かつ有益な体験でありました。

物語の中で黒蜥蜴が執心していた113カラットのダイアモンド「エジプトの星」にも匹敵するであろう大粒のエメラルドにダイアモンドをあしらったロングネックレスを早朝のスペイン広場にてまとう機会をいただきましたが、宝石商の岩瀬庄兵衛が発した「寶石には不安がつきものだ。不安が寶石を美しくする」という台詞のごとく、3人もの警備員さんが常に目を光らせて、まばゆいばかりに輝くそのジュエリーを見守っていらっしゃいました。
分不相応にも貴重なジュエリーを身に着けさせていただき、その美しさに恐れおののきましたが、その一方で、ページのテーマは「Joy」でしたので、品行方正な態度でジュエリーを前にひれ伏すようではなりません。つかの間ではありますが、身体にぴったりと沿うようにデザインされたジュエリーを存分に楽しませていただきました。

かつてパリの古書店にて求めたジャンヌ・モローさんの写真集では、老齢の彼女がシワだらけの指に大粒のジュエリーを着用した表紙が印象的で、経験を積み、年輪のごときシワが刻まれてこそジュエリーの価値に相応しい人間になれるのだと思えたため、若かりし頃には、ジュエリーにさほどの興味を示すことはありませんでしたが、年齢を重ねるごとに、やはり美しい宝石は美しいのだと感じるようになりました。

三島由紀夫は、生きているもの、血の通ったものを信じることに恐れを抱く黒蜥蜴に「寶石は自分の輝きだけで充ち足りてゐる透きとほつた完全な小さな世界」と言わせました。
黒蜥蜴がエジプトの星を奪おうと試みたように、完全で隙の無い宝石のもつ底知れぬ魅力は、人の心を高揚させ、年齢と共に失われつつある肌や目の輝きを補ってくれるものなのでしょう。

ローマの本店には、映画の撮影の合間に訪れたエリザベス・テイラーが恋人との逢瀬に用いたという秘密の部屋もあり、街中が遺跡のような古い街並みも相まって、ロマンチックな気分に浸っておりました。

BVLGARIの美しいジュエリーは、現在発売中の婦人画報3月号にて掲載中です。ぜひご覧下さいませ。

黒蜥蜴初日

Evocative set and lighting on stage

本日より『黒蜥蜴』が開幕いたします。

三島由紀夫の宝石のような言葉を、ルヴォーさんに導かれながら大切に研磨し、ようやく皆様にご覧に入れる日がやって参りました。

演技をする側の繊細な心を壊さぬよう、あたたかく親密な空気のなかで行われたお稽古では、動きや表現を指示されるのではなく、「このシーンでは黒蜥蜴が、明智に心を奪われたことに、怒りと不安を覚えているとしたらどうだろう?」などと問われ、自ら考える機会与えていただきました。
また、「明智に対する恋心を抱いている自分自身への苛立ちを、手下の雨宮に八つ当たりしているとしたらどうなるだろう?」とおっしゃるルヴォーさんの言葉から、台詞にこめる感情が幾重にもかさなってより深いものとなることに気付かされました。

井上芳雄さんの立て板に水のごとく発せられる台詞と美しい所作に、黒蜥蜴よろしく心を揺さぶられ、相楽樹さんの完成されたお人形ようなかわいらしさに、生クリームをつけて食べてしまいたいという衝動にかられ、朝海ひかるさんの謙虚で献身的なお芝居に、黒蜥蜴として存在することを支えられて安心感を覚え、たかお鷹さんのなりふり構わぬ守銭奴ぶりに笑わされ、成河さんの被虐的な演技に、ますます嗜虐性を喚起させられています。

花魁で言うところの禿(かむろ)のような立場で存在する朱儒たちは、コンテンポラリーダンサーの方々が演じて下さっており、黒蜥蜴に仕える者たちであるのと同時に黒蜥蜴の心のメタファーでもあり、私たちの演技に呼応するように踊る彼女たちの姿を見ていると、思わず涙を誘われます。

鍛錬されたしなやかな身体と卓越した演技力により、ルボーさんからの厚い信頼を得ているアンサンブルの皆さんも、この作品の時の流れを司る重要な役割を演じて下さっています。

そして生のバンドが三島由紀夫の世界とデヴィッド・ルヴォーワールドの架け橋となって、私たち出演者はもちろんのこと、観客の皆様を夢の世界へ誘うのです。

シンプルで洗練された美術も、レンブラントの版画のごとき美しき陰影の照明も、そして黒蜥蜴の心の有り様を託した繊細かつ大胆な衣装も、人間らしい表情を抑えたヘアメイクも、本番ギリギリまで試行錯誤し、ああでもない、こうでもないと、クリエイティブで前向きな議論が繰り返されています。

なんと幸せなことでしょう、この夢のような時間が夢のようであるために、本当にたくさんの方々が蔭ながら支えて下さっているのです。

皆様のご来場を心待ちにいたしております。

新春

Kiyomizu temple coverd with snow

あけましておめでとうございます。
皆様におかれましては、佳き休暇をお過ごしでいらっしゃいますか?

『黒蜥蜴』のお稽古も佳境に入って参りまして、全てのシーンを本番さながらに演じる通し稽古が数日にわたり行われています。
先日ははじめて、衣装を身に着け、メイクを施した状態で、早替えの練習をしたりもしました。

デヴィッド・ルヴォーさんの演出による機知に富んだお稽古は、演劇学校に通わせていただいているかのようで、かつての演劇界で起こった貴重なエピソードの数々を披露してくださり、常に笑いが絶えません。

ある日のお稽古では、旧約聖書について興味深いお話しをしてくださいました。
16世紀あたりまでは、イギリスおよびスコットランドにおいて聖書を英語に翻訳することは許されておらず(恐らく統治者にとって一般大衆に聖書を読ませたくない不都合な理由があったのでしょう)、原文のヘブライ語からラテン語、もしくはギリシャ語に訳されたもののみ許されていたとのこと、カトリックとプロテスタントの間の争いも緊迫した状況であった17世紀当時、スコットランド王でもあり、イギリス王も兼任していたプロテスタントのジェームズ1世(6世)が初めて英語訳聖書の編纂を命じ、当時の演劇界にて隆盛を誇ったシェイクスピアにもその誉れ高き仕事が回って来たというのです。

当時、46歳で油ののっていたシェイクスピアが、旧約聖書の詩篇46篇を翻訳し、そこにわずかな痕跡を残したとのこと、欽定訳旧約聖書の頁を開いてみると、確かにルヴォーさんのおっしゃる通り、詩篇46篇の冒頭から数えて46語目に震えるという意味のshakeという言葉があり、文末から数えて46語目には、なんと槍を表すspearという言葉が刻字されていたのです。
併せて見事にShakespeare(当時のスペルではSpearはSpeareと書かれたそうです)、彼の署名が人知れずなされていたという秘話に稽古場がどよめいたのでした。

アンサンブルの皆さんの絶妙なチームワークと生バンドによる音楽が、お客様を別世界へ誘う『黒蜥蜴』の場面転換は、出演者としてではなく、観客として客席で観たかったと思うほど素晴らしく、大きな劇場に立つことを恐れていた私も、ルヴォーさんの演出と、井上芳雄さんをはじめとする素晴らしい共演者の皆さんにゆだねていれば、何とかなるとの楽観主義に変わりつつあります。

1月9日より日生劇場、2月1日からは梅田芸術劇場にて上演されます『黒蜥蜴』をぜひご高覧くださいませ。

残酷劇場

A fragment of the stage floor

いつの間にやらすっかり枯れ葉散る季節となっていたのですね。

昨日より、舞台『黒蜥蜴』のお稽古が始まりました。
演出家のデヴィッド・ルヴォーさんを筆頭に、スタッフの皆様、25人もの出演者の皆様と共に、三島由紀夫の言葉を少しずつ噛み砕いていく日々が始まったのです。

ピーター・ブルック演出の『真夏の夜の夢』を13歳の時に観劇なさったルヴォーさんは、後々その時の作品についてピーター・ブルックが語っていた言葉を引用して、「『言葉が空中でぶつかり合っているような作品』という表現が、今回の作品にも相応しいだろう」とおっしゃっていました。

まずは全体の流れを大まかにつかむために、次から次へと存外のスピードでお稽古が進みます。
覚えていたつもりの台詞でも、実際に相手の役者さんの声を聴き、動きながら口にしてみると、言葉に詰まったりします。
待てど暮らせどルヴォーさんからカットのお声がかからず、「どこまで進むのだろう…..」と共演者の方々と目配せをしながら、探り探り台詞を交わすうちに、不思議と共犯者意識が芽生え始めました。
そして、なんと2日目にして台本の1/6頁分の動きが、暫定的ではありますが決まったのです。

稽古場に沢山の方々がいらっしゃることも初めてで、まるで突然観客の皆様の前で、未完成の作品を披露しているような、そんな恐ろしさがあり、ひそかに「残酷劇場」と名付けました。
これから本番までの間、ルヴォーさんの魔法の言葉に導かれ、共演者の方々の豊かで変幻自在な表現力に刺激をいただき、助けられながら、良き作品を作るための失敗を何度も繰り返すことになるのでしょう。
試みては壊し、壊した断片をすくい上げてはまた新たに築き上げることのできる贅沢な時間を楽しみたいと思います。

年明け1月9日より幕が開ける『黒蜥蜴』に、ぜひお越しいただけましたら幸いです。

Opera

“Fat House” created by Erwin Wurm at Schloss Belvedere in Vienna

ただ今、クリスマスマーケットにて賑わうウィーンにおりますが、心はどうも落ち着かず、気が急いて仕方がありません。

舞台『黒蜥蜴』のお稽古が間もなく始まるのです。
三島由紀夫さんが美輪明宏さんに懇願してようやく上演が叶ったというこの作品を演じることは、大きな覚悟を要することです。
美しい言葉で語られる名探偵明智小五郎と女盗賊黒蜥蜴の攻防戦は、究極のエンターテインメントであり、大人のロマンチックなラブストーリーでもありますが、台詞の美しさゆえに、私の中で理性と感情が激しく闘っています。
おぼろ気な記憶のままでは、言葉を探すことに必死になって心の扉を解放することができません。また、感情ばかりが先走っても、言葉が置き去りにされてしまいます。

一日も早く、言葉の呪縛から解放されて、自由にのびのびと台詞を口にすることができるように、ただひたすらに台本を読む日々です。
記憶力を助けるために、ピンクの紙に青で印字した台本をipadに入れて、ジムのウォーキングマシンや、ステップマシーンの上で汗だくになりながらぼそぼそとつぶやいています。

夜には、身のこなしや声の響きを学ぶため、国立歌劇場にてオペラ鑑賞を。
天井桟敷なら14ユーロなどと格安でチケットを入手することが叶い、時には上演開始ギリギリで、「持って行け泥棒!」とばかりに、チケットの投げ売りを始めるディーラーがいて、挙げ句の果てに「もういいよ、君にあげるよ」と無償でチケットを譲っていただけることすらあるのです。
そうして座った席の隣には、何十年も暇つぶしにオペラ鑑賞をしていらっしゃるという高齢のご婦人がひとりで腰掛けていらして、「あのテノールのテクニックは素晴らしいわ」などと、様々教えてくださいました。

『蝶々夫人』など、女性蔑視もはなはだしい上、人種差別的で、20数年前に鑑賞して以来、ずっと苦手な演目でしたが、かつて映画にてその妻を演じさせていただいた藤田嗣治が美術を手がけていたため、あまり期待せずに聴きに行ったところ、蝶々夫人がわずか100円(現在の価値で100万円ほど)でアメリカ人に買われて嫁ぐ際に、「いずれはアメリカ人の妻をめとるつもりだけれど、とりあえずつかの間の結婚を」というくだりで、やはり憤りを覚え、日本文化を少々誤解している節が多々あり、違和感を拭いきれないものの、結末はわかっていても、夫と息子を同時に失った蝶々夫人が自ら死を選ぶ際には、悔しいかな泣かされてしまうあたり、やはり良く出来た物語なのでした。
きっと、エジプトの方々が『アイーダ』をご覧になっても、同じように違和感を抱かれるのでしょうが、私たち聴衆はそんなことも気にせずに感涙にむせぶのですから、作劇の過程において誇張表現は必要悪とも言えるのでしょう。

伝統芸能と言えるオペラも様々な試みがなされ、絢爛豪華なセットにまばゆいばかりの衣装といった作品ばかりではなく、普遍的な物語をいかに今の時代に即した表現に置き換えるかという模索がなされているようです。
成功例も失敗例も様々あるようですが、勇敢な挑戦の目撃者であり続けたいと思います。

デヴィッド・ルヴォー氏演出による『黒蜥蜴』は年明け早々の1月9日より日生劇場にて上演です。
ぜひ足をお運びくださいますよう、お願い申し上げます。

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